新人新聞記者として(2007年〜)

多くの新聞記者はまず、全国各地に散って、警察担当から仕事をスタートさせます。もう一つ、警察担当は、夏の高校野球を中心に、スポーツ取材をします。この2つが新人の主な仕事になります。
私の記者人生は2007年に佐賀でスタートしました。その年の「大事件」は、なんといっても佐賀北高校の甲子園優勝。前評判は決して高くないチームでしたが、開幕試合(大会の1試合目)に勝って勢いにのると、延長再試合を制するなど強豪校をつぎつぎとやぶり、決勝では逆転満塁ホームランも飛び出して初優勝を果たします。歴史的な勝利の取材ができたことで、「自分は記者なんだ」と責任感を強く感じるようになりました。

スポーツ以外では、消防車のサイレンを耳にすれば追いかけて火災現場の写真をとり、殺人事件が発生したと夜中にたたき起こされ、孤独死の現場では死のにおいをかぎました。暴力団の抗争があれば組事務所の前で張り込み、市議会議員の政務調査費の使い方がおかしいと聞けば情報公開請求で資料を取り寄せて追及もしました。

自分の知らない社会を、自分になかった視点から多角的に見ることができたことは私の財産となっています。

「どこに住むのか」について考えさせられたのは東日本大震災での取材でした。原発事故のあった福島に派遣され、放射能汚染に苦しんでいた飯館村が村役場を移転させるまでの2カ月を取材しました。
危険だと言われる土地に住むことになぜこだわるのか。そこにはみなで開墾し、力を合わせて作り上げてきたコミュニティー、仕事、学校、絆がありました。その地域でなぜ酪農がさかんなのか。それまでの苦労話を毎日聞かせてもらった菅野典雄村長(当時)の言葉には力がありました。私も、豊島区長として、住み暮らすひとり、ひとりがいつまでも住み続けたいと思う街づくりをすすめたいと思います。

蛇足ですが、宮崎時代、後輩が大のカメラ好きで写真撮影の奥深さや楽しさを教えてもらいました。以来、こつこつとレンズを買い集め、撮影を楽しんでいます。

ベンチャーマインドで課題発掘、そして解決(2012年〜)

記者生活でもっとも長く在籍したのが経済部です。
任天堂や京セラなど、京都の企業担当から経済記者生活をスタートさせました。
エンタメ系では、任天堂をはじめとするゲーム会社や、ユニバーサルスタジオジャパン、ディズニーランドなどを担当。新しい乗り物に先行して乗らせてもらうこともありますし、毎週のようにディズニーランドに通った時期もありました。エンターテイメントのプロたちの取り組みは面白く、やりがいもありました。ただ、やはり遊園地は並んでもいいから仕事抜きで行きたいとも実感しました(子どもたちは理解してくれず、ずるいと言われ続けましたが)

また、遊園地のような非日常の面白さもあれば、一方でゲームを利用し、楽しむことを日ごろの生活にとりいれるなど、まじめに遊ぶことの意味も学びました。

他には金融機関や、電力会社、電機メーカー、コンビニや百貨店などの小売り業界、ものづくりをする中小企業など、多くは1年ほどの期間で、各種業界を取材させてもらいました。
特に長く取材したのは自動車業界の取材です。戦後、貧しい日本でモノづくりに取り組み、世界の列強と戦い、時に綱渡りのような状況を勝ち抜いて確固たる地位を築いてきた業界です。つい、成功することを前提に業界の歴史を紐解いてしまいがちですが、一寸先は闇であった状況だったことを再認識するとその景色は全く異なって見えます。改めて、飽くなき挑戦を続けた先人たちの取り組みを尊敬しています。

もう一つ、並行して力をいれたのが、自分たちの技術や商品で世界を変えようと取り組むベンチャー企業取材です。大阪では、ベンチャー企業の育成プログラムでメディアメンターも務めさせていただきました。

目の前によこたわっている課題を発掘し、それを解決することで、世の中を変えようとするベンチャー企業の志の高さには感銘を受けましたし、取り組みは、目からうろこが落ちるような気持ちで取材をしてきました。
例えば、ガソリンに変わる燃料を植物から作り出そうという取り組み。CO2は増えないし、電気自動車用の充電設備もいりません。電気が通っていないような場所でも使えますし、世界最高の日本のエンジン技術を磨き続けることもできます。ほかにも、アスリートのうんちの力で健康を広げようという挑戦や、介護や保育の現場の課題を独自技術やアイデアで解決しようと取り組んでいました。

ベンチャー企業の力は、区政の課題解決にも活かしていきたいと考えています。

分かりやすく身近な区政(2021年〜)

記者生活の最後は政治部でした。
21年9月、異動直後から、岸田文雄氏が率いる宏池会を担当し岸田総裁が誕生するまでを取材しました。10月は衆院選、11月は枝野幸男氏の後任を決める立憲民主党の代表選、と、選挙が続きました。その後は、立憲民主党の泉健太代表の担当記者に。途中からは共産党や国民民主党、NHK党、参政党も担当してきました。

元々、「ザ・選挙」というデータベースを学生時代に開設し、選挙を身近にしようと取り組んできたこともあり、やりがいのある、まさにやりたかった仕事から始まりました。その後は、野党クラブ担当として国会全体を俯瞰することを意識しながら取材にあたってきました。目の前の政治家、政党の考えにひっぱられることもあり、それに気づくたびに修正の繰り返しでしたが充実した日々でした。

また、どうすれば多くの人に政治原稿を届けられるのか。どうすれば朝日新聞を多くの人にお金を払って読んでもらえるかにも取り組みました。いろいろな動画を撮影、編集し、試行錯誤できたことは、どんな読者に届けたいのかを考える機会にもなりました。この取り組みの先に新聞のあらたな可能性があると信じてます。

発信力を生かし、分かりやすく身近な区政につなげていきます。

朝日新聞を退社、そして区長に挑戦!(2022年)

「現実は小説より奇なり」といいますが、本当に思いもしないようなことが発生し、「昨日までの延長に明日はないかもしれない」と何度も思いました。それでも、日々必死でくらいついてきました。

記者生活を振り返っていると、出来事とともにその時々に支えてくれた、取材先や同僚の顔が次々と浮かんできます。
どんな言葉でも足りないかもしれませんが、感謝の気持ちでいっぱいです。
あこがれて入った朝日新聞での16年間はとても恵まれた時間で、幸せな記者人生を送ることができました。周りにいてくれた皆様のおかげです。本当に人との出会いに恵まれました。この時間は私の誇りであり宝物です。ありがとうございました。

新たな挑戦も人生をかけて取り組みます。応援よろしくお願いします。