1981年 誕生

1981年9月14日 築地生まれ(41歳・A型)

3兄弟の長男。祖父母と2世帯住宅で育ちました。母方の菩提寺が巣鴨にあり、祖母が毎月のように墓参り後に買ってきてくれる、巣鴨の大福や和菓子を食べて育ちました。祖父は第二次世界大戦時に洋上で撃たれ手が不自由でしたが、それでもいつも笑顔で、毎日楽しそうでした。

祖母もまた明るく、祖父にはたまに文句も言いながら、孫に深い愛情を注いでくれました。決して贅沢はしない祖母でしたが、「お買い得」という言葉に弱く、街中で行列をみかけると「人がならんでいるからとりあえず並んでみる」と公衆電話から連絡があり、袋一杯のお菓子など「お買い得商品」を買ってきたものです。

1981年の出来事
ピンク・レディー解散/ファミリーマート誕生/雪見だいふく発売/参院補選

1988年 千代田区立お茶の水小学校・同区立一橋中学校

小学校時代から電車通学。満員電車の中で読書週間を身につけました。中学時代は剣道部。毎朝、皇居周辺を走ってから授業を受ける。長距離走は得意です。

1988年の出来事
リクルート事件/東京ドーム・青函トンネル竣工/ドラゴンクエスト3/参院補選

1997年4月 早稲田実業学校商業科

入学前にテレビで見たラグビー早明戦に感動し、ラグビー部へ。練習が無い毎週月曜日、初のアルバイトを熱帯魚店で始める。

1997年の出来事
写真フイルム出荷量過去最多(以後減少)/消費税増税(3%から5%)/山一證券破綻/たまごっちブーム

2000年 早稲田大学社会科学部 1年時ボランティア

記者の原点 ボランティア活動

2000年3月31日に噴火した有珠山。大学1年の夏を前に、被災地の助けになにができるか考え、最初に思い浮かんだのが寄付をすることでした。2日間、日雇いバイトをして2万円ほどを稼ぎ、そのお金を現地に足を運んで渡そうと計画しました。また、その前に、約10年前(当時)に噴火災害で多くの犠牲者を出した長崎県の雲仙普賢岳に足を運んで話を聞くことで、その経験が少しでも有珠山噴火の被害に苦しむ人たちの力になれないかという気持ちでした。
困っている時にはお金はいくらあっても困らないだろう、という短絡的な気持ちでしたが、雲仙の被災地で聞いたのは、お金によって引き裂かれた地域の現状でした。雲仙普賢岳の噴火はバブル期の91年だったこともあり、多くの義援金などがあつまったそうです。その義援金は各家庭に配布されました。ただ、被災度によって額に違いが出たそうです。結果として何が起きたか。額が少なかった人たちが、多かった人をねたむような事態となり地域の絆が崩れたり、お金の使い方を巡って家族が崩壊した地域、家庭がいくつもあったそうです。結果、再建された立派な、誰も住んでいない家屋が残されていました。
ヒッチハイクで乗せてくれる人たちからも、「このお金も」と義援金を託され、洞爺湖のほとりにたどりついた際には手元には寄付用の5万円ほどがありましたが、そのまま募金に応じていいものか悩みました。
私は数日ボランティア活動をしたら、そのまま初めての北海道を見て回ろうと考えていました。その考えを改め1週間ほど滞在して除灰活動をすることに。週末を中心に多くのボランティアが道内を中心に集まりましたが、泊まり込みで取り組む人は少なく、現場で作業の方法などを伝える責任者の役割に。ここでも人間模様は様々で、皆が降灰に苦しむなかで、順序を決めて作業をしていくので、そのタイミングの早い遅いで、街中の人間関係がぎくしゃくする場面もありました。ただ、物資など足りない物は多くあり、この状況であれば有効に使ってもらえると考え、当初の考え通りに寄付をしてきました。
現地に足を運び、本当のニーズや課題を見聞きすることの大切さはこのときに学びました。
除灰作業の現場責任者のようなことをしていたため、日本テレビの「24時間テレビ」にも取材してもらい、初めてのメディアとの接点に。自分ができること以上に、地元の方々や同じボランティアの人々に教えてもらうことが多く、記者を志すきっかけに。

初めての原稿料

ヒッチハイクで全国を回る際に大変おせわになったのがトラック運転手のみなさんだった。50台を超えるトラックに乗せてもらった。その中で聞いた話が、トラック運転手のなかで覚せい剤が広がっているという問題だった。
決して快楽のためではなかった。荷物を運ぶトラックは現場への到着時間も細かく定められ、遅れはもちろん、早く到着することも許されない。競争の激化で利益が減り、高速道路は最小限しか使えない。眠気が襲ってきたときに15分仮眠をとり、その分を高速を利用して取り返すこともできない。
トラック事故が社会問題となり規制が強化され、物理的に90キロまでしか機械的に出せなくなっていたことも運転手の行動を縛った。
そもそも、多くの会社は、部外者をトラック内に入れることは禁止している。それでも禁止されている部外者を乗せることの理由が眠気が訪れたときに起こしてほしいという、切実な思いだった。
睡魔と戦いながら運転し、途中の記憶がないままに目的地に到着したという話は何度も聞いた。運転手の多くは、居眠り運転で事故を起こし、死んでしまうかもしれない、人を殺してしまうかもしれないという恐怖と戦っていた。
覚せい剤は、どうしようもない眠気に襲われたときに使うのだという。
この苦境を書いたルポが雑誌「世界」(岩波書店)に掲載され、初めて「神澤和敬先生」と書かれた原稿料をもらった。3万3千333円だったとおぼろげに記憶している。また、この記事は国会でも取り上げられ、物流を支える人々の労働環境を見直す議論にもつながった。

2000年の出来事
北海道有珠山噴火/プレイステーション2発売/そごう民事再生手続開始/二千円札発行/衆院選(森首相)

2001年 大学2年時 休学

学生のアルバイト

父の事業が行き詰まり、その後に両親が離婚することもあり大学2年目の1年は休学する。家族の生活費を稼ぐかたわら、実家に不当に付与された根抵当権を外すために法的措置をとる。弁護士事務所や裁判所へ初めて通う。

日中は備長炭の卸問屋の倉庫、夜間はカプセルホテルの受け付けとして、月500時間以上働き月収50万円超。働くことの楽しさ、大変さを実感。家計を見直し、自身を含めて兄弟は育英会の奨学金で学校に通うことに。今も返済を続ける日々を送る。

2001年の出来事
アメリカ同時多発テロ/東京ディズニーシー開園/Apple iPod発売/Suica開始/参院選(小泉首相)

2002年 大学3年時 NPO団体での介護経験や学習塾の開催

3年目は、生活に一定の目処もついたことで復学。自分で学費を払うことになり、学業にもより前向きに取り組むように。この年から授業は一番前で聞くようになった。一方で「お金」だけを目的とせず、考えながら社会との接点を持とうと取り組む。

NPO団体に登録し、高齢者や障がい者の介護を週1回行うように。また、塾に行っていない弟の友人を集めて学習塾を開催。より効率よく稼ぐことを一つの目的に始めたが、場所の確保から始まり、カリキュラム作り、生徒の満足度をどうあげるか、進捗度が異なる生徒とどう向き合う。与えられた仕事ではなく、初めて経営視点で物事を考え動くことができた。

2002年の出来事
日本人がノーベル賞W受賞/住民基本台帳ネットワーク開始/テレビアニメ「NARUTO -ナルト-」放映開始/アゴヒゲアザラシ「タマ」ちゃん

2003〜06年 大学4年〜早稲田大学大学院 公共経営研究科

政治との接点

執筆活動などを通じて、社会や政治への興味を強めていたころ、ゼミに講義できた故三塚博氏の秘書だった西村明宏氏(現・環境大臣)と出会う。いろいろと議論を持ちかけたところ、「君が言うような問題が自民党にあるか、自分の目で見てみたらいい」と誘われる。西村氏の初当選を機に学生秘書として約1年半、週2~3日ほど国会や自民党本部に通う。

政治家の必要性を再確認したこと、また、国会事務所での出会いもきっかけに、選挙制度の勉強をするため大学院へ進学。講師で元鎌倉市長の竹内謙氏に誘われ、より実践に近い場での研究を目指して、竹内氏が社長を務める市民メディア日本インターネット新聞社(JANJAN)で選挙サイトを作ることに。

選挙をより身近にするためにはどうするべきかを考え、選挙データベースサイト「ザ・選挙」を立ち上げる。(選挙ドットコムの前身)より多くの人に見て、使ってもらえるよう、大学院でお世話になった筑紫哲也教授や北川正恭教授にも動画でたびたび登場してもらいながら改修を重ね、日本最大のデータベースサイトに。グーグルやヤフーの選挙ぺージにもデータ提供をしてきた。

その後は、学部生時代からの思いも強め、新聞記者として、社会や政治と触れる。

2003〜06年の出来事
SARS/千と千尋の神隠し/浅間山噴火/東京メトロ発足/新紙幣発行/スマトラ島沖地震/2003衆院選・2004参院選(小泉首相)/JR福知山線事故/マンション耐震偽装/愛・地球博/郵政解散(衆院選)/三菱東京UFJ銀行発足/ライブドア事件/村上ファンド/PS3発売/ご当地ナンバー導入/